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Fujisawa, which began as a post town, has evolved through growth, stagnation, and now redefinition as a regional city—alongside it, Kadowakamatsu has shared the journey. This piece traces their history through the tides of time.

K

Fujisawa
and
Kadowaka
matsu

K F

Fujisawa, which began as a post town, has evolved through growth, stagnation, and now redefinition as a regional city—alongside it, Kadowakamatsu has shared the journey. This piece traces their history through the tides of time.

Fujisawa
and
Kadowaka
matsu

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1

The
Begining

藤沢のはじまりと
角若松の始まり

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2

Shonan
Brand

湘南ブランドとしての
発展

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3

Regenerated

再開発と高層化

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4

Localized

都市の再編集

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Fujisawa
and
Kadowaka
matsu

1

The Begining

藤沢のはじまりと角若松の始まり

©Kadowakamatsu Inc.

「藤沢は、宿場町だったんだよ。藤沢は東海道の六番目。元々は本町が栄えていたけれど、明治5年(1872年)に新橋–横浜間に鉄道ができて、その後、明治20年(1887年)に藤沢に駅が開設された。当時、角若さんと稲毛屋が駅前にあったね。駅の開設以降、藤沢駅前が発展していった。本町の商人たちも駅前に移って行き、遊行通りが栄えた。遊行通りって正式な名前じゃないんだけどね。」

—井口鐡介

藤沢の歴史を紐解くと、東海道の藤沢宿に辿り着く。慶長6年(1601年)、徳川家康の命により東海道が整備され、日本橋を起点に品川、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚を経て、六番目に藤沢宿が設けられた。藤沢宿は、家康の鷹狩り御殿が築かれた由緒ある土地であり、江戸と京都を結ぶ交通の要衝として栄えた。また、遊行寺の門前町としても信仰を集め、大山詣りや江の島詣りの参詣者を迎えた。
明治20年(1887年)、東海道本線の開通により藤沢駅が開業。戦災を免れた藤沢には、三浦半島や海老名、綾瀬方面から集まった商品を取り扱う市場も存在していた。昭和4年(1929年)には小田急江ノ島線、昭和5年(1930年)には江ノ島電鉄が接続され、藤沢は複数路線の交差点として鉄道交通の要衝となっていく。これにより藤沢は、宿場町から近代都市へ、そしてその中心が本町から駅前へと移っていく。
宿場は柏尾川と引地川に挟まれ、水運や防衛の要としても重要な役割を果たした。旅籠や茶屋、商家が軒を連ねる町並みは活気にあふれ、物流と人の往来に満ちていた。その中で、駅の開業と同時期に、藤沢市大坂町東横須賀で角若松が創業される。「若松」という料亭から居抜きで物件を買取り「角若松」が誕生。翌明治31年(1898年)には割烹旅館としての事業がスタートした。
当時、駅前はその喧騒から土地購入者が少なかったという。そこに角若松は目をつけた。開業してわずか3年後の明治33年(1900年)、創業当時は19坪だった駅前の所有地は201坪にまで拡大。その後、大正4年(1915年)に跡を継いだ二代目・彌吉は、土地を活用した文化創造事業として大正14年(1925年)に劇場賃貸事業を開始する。大山詣りや江の島詣りといった旅行の流行も重なり、角若松は、人が交差する都市・藤沢とともに、人が集まる場所へと成長していった。

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2

Shonan Brand

湘南ブランドとしての発展

©Kadowakamatsu Inc.

「湘南っていつから言い始めたんでしょうね。私は高校時代に湘南学園に通ってましたが、なぜ“湘南”という名称だったのかよくわかりません。私らからすると、藤沢のほうが由緒あるんです。別荘地で言えば鵠沼だし、鎌倉といえばおしゃれな町。腰越は漁師の町。それぞれの地域に、昔からの特徴があるんですよね。藤沢は、由緒はあるけどどこか田舎らしさがある土地。住んでいる側からすると、“湘南”という呼び方は照れてしまいますね。
そういえば、藤沢の南口に東急ハンズができたでしょう。その時は、藤沢(特に南のほう)が洒落てきた印象がありました。家のある北口のほうが、私にとっては素朴で落ち着く場所なのですけれど。南口は元々田んぼしかなかったでしょう。でも、東急ハンズがあった頃は、そこでしか買えないものがあって魅力的でしたよ。」

—中野珠江

戦後の復興とともに、藤沢を含む湘南地域は、海辺の自由な暮らしを象徴する地域として注目を集めた。昭和25年(1950年)代後半から、江の島や鵠沼を舞台にした映画や音楽が登場し、サーフィンや米国西海岸文化の影響を受けた若者たちがこの地に惹きつけられた。“湘南”という言葉は、観光地の枠を超えたライフスタイルの記号として定着していった。
そうした時代の流れの中で、昭和51年(1976年)、藤沢駅南口の小田急百貨店内に東急ハンズ藤沢店が開業。渋谷店と並ぶ初期出店の一つとして、湘南エリアの暮らしに新たな文化をもたらした。
その頃の角若松では、大正14年(1925年)に18歳の若さで三代目となった彌太郎が、割烹旅館と劇場の賃貸事業に加えて各事業を拡大。昭和37年(1962年)には片瀬料亭「角若松別館」、中国料理「角若松」を開業。そしてその3年後の昭和40年(1965年)には、駅前に増田ビルが完成。マルイのビルとして若者が集う場所となる。
時を同じくして、藤沢駅前の区画整理によって藤沢駅南口ではフジサワ名店ビルがオープン。地方都市として輝かしい成長を遂げていた藤沢、そして角若松にも、バブル崩壊の足音が近づいていた。

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3

Regenerated

再開発と高層化

©Kadowakamatsu Inc.

「駅ができて、駅前にビルが建った。そこから百貨店の時代になり、その次は郊外型スーパーの時代。でも、どれも集客力が落ちて、今はネットで探せば大体のものは手に入る。今は、専門店の時代。時代の流れがそうなっているから。
角若松も、旅館、中華料理屋、不動産、そして今はマーケットイベント。時代と人が変わって、その中で新しいものを目指そうと変革を行っているよね。」

—鈴木恒夫

平成2年(1990年)代以降、藤沢駅周辺で大規模な再開発が始まり、商業施設やマンションが次々と建設され、駅前空間は様変わりした。かつての宿場町の面影は薄れ、都市としての輪郭が鮮明になった。他方、“湘南ブランド”を背景に、藤沢は観光都市から生活の拠点として、都市の構造を変えていった。
平成18年(2006年)、東急ハンズ藤沢店が閉店。かつて湘南的ライフスタイルを象徴した存在の退場は、消費構造や時代感覚の変化を物語っていた。同年にはビックカメラ藤沢店が開業し、一時的な代替を果たす。また、平成31年(2019年)春には新たな商業施設としてリニューアルオープンしたが、市場の変化や郊外大型施設の開業も影響し、この十数年で駅前の活力は次第に陰りを見せ始めた。
そのころ角若松では、平成2年(1990年)に四代目となる隆之が跡を継ぎ、バブルの崩壊と“接待”というかつての商談文化の否定に対して、大胆な経営判断を下す。旅館や中華料理などの事業から撤退し、駅周辺を中心とした土地アセットを活用する不動産業へ本格的にシフト。平成13年(2001年)には片瀬の「角若松別邸」を閉館、代わりにホテル運営事業を行う株式会社ウェルカムを設立。同年末には角若松ビルを完成させる。賃貸事業が軌道に乗る中で、隆之は「藤沢市民祭り」や「藤沢宿・遊行の盆」などを企画し、まちづくりに注力。
その中でも話題となったのが、ギネスに認定された藤沢銀座土曜会主催による「世界一の金魚すくい」。始まりは平成11年(1999年)。第1回の時点で既に、長さ50.4メートルの水槽に4万人以上が訪れ、ギネス記録に認定された。平成13年(2001年)には北口商店街が長さ100.8メートルの水槽を用意。金魚3万匹、メダカ1万匹が放たれ、記録を更新。令和元年(2019年)の終了まで毎年開催され、藤沢の名物企画として親しまれた。

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4

Localized

都市の再編集

©Kadowakamatsu Inc.

「藤沢に変人を集めたい。変人は、美意識が強く、自分の心が動いたことしかやらない。積み重ねてきたものを壊すのを厭わないし、どんな衝突が起きようと、自分が信じることをやり抜こうとする。そして、彼らはいつもとても楽しそうだ。
私たちが目指すのは、そんな変人が集まる異端の集積地。だって、彼らこそがその地の文化を形づくっていくから。アート・文学・建築・ビーチカルチャー・学問において独自の価値観を生み出し、人々の常識を挑発し続けた、かつての湘南のように。」

—増田隆一郎

近年の藤沢市では、藤沢駅前、湘南台、辻堂など、それぞれの地域で街を盛り上げる活動が芽吹いてきた。行政主導による街づくりの在り方を再考する会の開催や、公共空間の利活用、地域資源の再定義が始まり、都市再開発一辺倒の時代から、個性と居場所を重視する時代へと変化。市民・事業者・行政がともに関与しながら、新しい形への“再編集”が進んでいる。
角若松も、平成29年(2017年)に五代目となる隆一郎が代表に就任。「Small, Local, Independent」を掲げた様々なマーケットを主催。「MARKET251」をはじめ、ブレッドマーケット、クラフトビールフェス、ナイトマーケットなど、湘南エリアにとどまらず国内外から選りすぐりの出店者を集めたイベントを展開。令和6年(2024年)度開催のMARKET251では、年間24日間の開催で延べ来場者数8万人を記録。
また、藤沢市が軸となって立ち上げた、藤沢駅前の景色を変えることを目的とした活動「エリマネ」に初期から参画。「共謀者の会」を企画し、馬場正尊、田中元子、吹田良平など都市研究の第一人者を招いた勉強会を実施するなど、まちづくりにも積極的に関与している。
さらに令和元年(2019年)には、角若松が「フジサワ名店ビル」のオーナーとなり、老朽化による閉館までの来館者数最大化を目指したユニークなプロモーションを展開。来館者数は年々増加し、令和6年(2024年)には550万人が訪れる場所へと生まれ変わった(今後、さらに再生予定)。角若松は、「変わりものを湘南に集める」をビジョンに掲げ、硬直した都市に対して藤沢の独自の姿を描こうとしている。